2016年01月04日

水木サンの幸福論

水木サンの幸福論 (角川文庫)

水木サンの幸福論
水木しげる/著(角川文庫) 2007年 (単行本は2004年)


【概要】
水木しげるの自伝書。


【動機】
水木サンの著書を乱読中。


【所感】
ユーモアがあって読みやすい。

のんきなところや、楽しくなったりするところが似ている。

食べるために職をいろいろ探したりするところは、とてもわくわくする。一番実入りがよかったのは募金活動(戦争で左腕を失ってたので)だっとというのも、生きるためには何でもやるというのが伝わってくる。
ひょんなところからマンションを安く買って人に貸して家賃収入を得たり、けっこう楽しそうだ。



【抜粋】
●水木サンは売れなかった時代でも、原稿料の大半は、漫画の筋を考えるのに役立ちそうな本とか、妖怪の作画のための資料とかを買い込むのに使っていました。食べ物を買う金も満足に残らなかったが、それだけ「好き」の力が強かったのです。
 ところが、同業者の家に行くと、本なんか一冊もない人たちも少なくありませんでした。面白おかしく、楽しみながら好きな漫画を描いて、楽して暮らしたいという人たちです。そういう人たちは、ほとんどが消えてしまいました。たぶん「好き」のパワーが弱かったのでしょう。
 水木サンが幸福だと言われるのは、長生きして、勲章をもらって、エラクなったからではありません。好きな道で六十年以上も奮闘して、ついに食いきったからです。ノーベル賞をもらうより、そのことのほうが幸せと言えるでしょう。(p.18-19)

☆好きな道で生きることこそ何よりの幸福。成功している人の大半は、水木サンのように収入のほとんどを資料集めなどの投資に費やしている。


●部屋に入ると、祭壇の正面に一升瓶が置いてあったのを覚えている。島根半島にある一畑薬師からもらってきた水である。長く置いておくと水は腐るはずだが、何となく不潔なこの水で眼を洗うと効くらしかった。(p.41)

☆水木サンが子どもの頃に通ったというのんのんばあの家の話。ずっと置いてても腐らないということなので、アルカリの水かな? だとしたら、眼に効くのもうなづける。


●相変わらずの落ちこぼれ二等兵の日々を過ごすうち、八月十五日を迎え、「ポツダム宣言受諾」が伝えられた。ジャングルにいる我々には意味が分からず、「勝ったのか」というささやきも漏れたが、やがて負けたと分かった。私はずっと前から負け戦を悟っていた。落胆と虚脱感が渦巻く中、「生き延びた!」と思った。感無量だった。(p.103-104)

☆最前線で戦っている兵士たちは自分たちが勝ってるか負けているかすらも知らなかったのか。負けたという悔しさよりも「生き延びた」という喜びの方が大きいのはリアルだ。


●自作の劇画や漫画の中で、最も愛着深い作品は何かと聞かれれば、『総員玉砕せよ!』と答える。ラバウルでの体験をもとに描いた戦記ものだが、勇ましい話ではない。誰に看取られることもなく、誰に語ることもできずに死んでいき、そして忘れられていった若者たちの物語だ。(p.104)

☆『総員玉砕せよ!』 も読んだが、やっぱり水木サンにとって戦争体験は人生のコアになっていると思う。


●ほうほうの体で神戸にたどり着いて、これまた安い宿に泊まった。ここでも雨にたたられ、長逗留になった。ある夜、中年の女性経営者が部屋にやって来て「この家を買ってもらえんやろか」と持ちかけてきた。アパートにしたらいいと言う。値段は二十万円と、ひどく安い。よく聞いてみると、百万円の借金が付いていた。・・・(中略)・・・アパートは神戸市兵庫区の水木通りにあったので、「水木荘」と名付けた。1949年(昭和24年)のことで、私は27歳になっていた。
・・・(中略)・・・
勝丸センセイは物覚えがきわめて悪く、私が何度「武良です」と本名を言っても、水木荘の連想から「水木さん」と呼ぶ。いちいち訂正するのが面倒になって、とうとう水木をペンネームにしてしまった。茂はひらがなにして、半世紀以上たった今でも使っている「水木しげる」が誕生したわけだ。(p.120-127)

☆「水木しげる」という名前の誕生秘話。ちなみに、勝丸センセイというのは紙芝居の顧問の先生である。この頃から水木サンは紙芝居の絵を描き始めることになる。少年時代からの夢であった「絵で食う暮らし」が始まったわけだが、ほとんど儲からず、アパート経営による収入に頼っていたようだ。ちなみに、水木荘は四年後にいよいよ立ち行かなくなって95万円で手放し、西宮市に小さな家を買って引っ越したようだ。


●四年後に二女悦子が生まれたが、何と誕生日は尚子と同じ12月24日。このころは少年漫画氏で売れ出していて、極貧は何とか脱出していた。誕生日まで計算していたわけではない。だが、誕生日のお祝いは二人一緒にできるし、おまけにクリスマスイブだから、その祝いもあわせて済ますことができる。プレゼントもまとめて一個。(p.146)

☆合理的だなぁ(笑)


●『テレビくん』 は思いのほか好評で、その年に第六回講談社自動漫画賞をもらうと、まるで堰を切ったように少年漫画誌から注文が舞い込んだ。貸本漫画の原稿料は1ページだいたい三百円。『ガロ』 は五百円もくれたので驚いた。ところが、少年漫画誌は一ケタ違う。私も妻もあまりの高額に目を丸くした。
 長い長い間、私に付きまとっていた貧乏神は去った。しかし、今度は妖怪が取り憑いた。やっかいなやつで、名前を「妖怪いそがし(忙し)」という。
・・・(中略)・・・
『テレビくん』 が掲載された直後の1965年(昭和40年)8月から、『週刊少年マガジン』 で 『墓場の鬼太郎』 の連載が始まった。明るく、愉快な妖怪漫画は人気を呼んで、注文攻め、締め切り攻めになった。
 43歳の人気漫画家の誕生である。鬼太郎だけではない。河童の三平や悪魔くんなど、紙芝居や貸本屋のころから手なずけておいた主人公たちを総動員して、殺到する週刊、月刊の連載をこなしていった。(p.156-157)

☆長い下積み生活、貧乏生活を経て、その努力が実って売れっ子になる瞬間というのは何度見ても気持ちがいい。売れっ子になると途端に忙しくなるから、下積み時代に何をやっていたかがとても大事になる。集中的な勉強なども下積み時代にしかできない。もう勉強するものは何も無い、ストックも山ほどあるというときが下積みから抜け出すタイミングなのかもしれない。


●のんのんばあの思い出
宗平 茂はのんのんばあのことをよく書いているけれども、私がいちばん、のんのんばあに気に入られていたんだよ、実は。

しげる のんのんばあの、オンボロの家に最もよく泊まったのが宗平兄だったネ。(中略)

幸夫 でも、やっぱり茂兄がいちばん影響を受けているよね。僕たち二人は、のんのんばあの話は今はもうあんまり覚えていないんだ。

宗平 話はたしかに面白かった。子どもがワクワク、ドキドキする話ですよ。でも、心の底から感銘したり、魂を揺さぶられたりするような中身ではなかったよ。

幸夫 不思議なことやいろいろな話をいしてくれる、優しくて、ちょっと変わったおばあさんという印象の方が強かったな。

宗平 のんのんばあの影響で茂は人生が変わっちゃったんだからな。

しげる そこが水木サンの優れた感受性の証明です。純粋無垢な精神の表れなのです。すなわち天才の証拠ですよ!(笑)
(p.189-190 特別付録1「わんぱく三兄弟、大いに語る」より)


☆『のんのんばあとオレ』 を読んで、のんのんばあに育てられたら誰でも水木サンのような妖怪博士になりそうと思っていたがそうではなかった。やっぱり水木サンは子どもの頃から特別に感受性や霊感の強い子だったのだろう。




【アクションプラン】
・こういう自伝書を作ってみたい。

・しばらく経って(3年後か5年後くらいに)また読んでみたい。


【評価】
評価:★★★★☆
こんな人に、こんな時におすすめ:
水木サンのことをもっと知りたい人に。
水木サンがどうやって漫画家として食べていけるようになったのか知りたい人に。
売れない芸術家に。
そして、幸福に生きるためには何をすればいいか知りたい人に。





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(121010 読了)
posted by macky at 21:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 自己啓発 | edit | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする