2016年05月24日

ゆめいらんかね

ゆめいらんかね やしきたかじん伝
角岡伸彦/著 (小学館) 2014年
1,400円+税


【動機】
殉愛』 や 『百田尚樹『殉愛』の真実』 を読んで興味を持った。



【所感】
伝記としてうまくまとまっていて、一通り、たかじんさんのことを知ることができた。



【概要】
関西の視聴率男の「心奥」を描く

2014年1月3日、歌手でタレントのやしきたかじん氏が食道ガンで死去した。関西を中心に活動してきた、いわば"ローカルタレント"である。 しかし、翌日の全国紙はその死を大きく報じた。死後2か月後にとりおこなわれた偲ぶ会の発起人には、安倍晋三首相、建築家・安藤忠雄氏など各界の大物が名を連ねるなど存在感の大きさを示した。
ただし、数多の追悼番組が組まれ、芸能人との交遊録も語られたたかじんだが、素顔はあまり知られていない。
なぜ東京進出に失敗し、その後、東京の番組出演を避け、さらには東京への番組配信すら禁じたのか。晩年、なぜ政治に接近し、政治家を生む原動力となっていったのか――。
取材で明らかになっていったのは、ある作詞家が「小心者で、優しくて、気の弱いおじさん。あの人は、やしきたかじんを演じていたと思う」と評したように、一見、剛胆にみえるたかじんのあまりに一本気で繊細すぎる一面だった。本書は内なる葛藤を抱えながら、自らに求められた役割を「演じ続ける」たかじんの「心奥」を、たしかな取材で描いていく。(Amazonより)


やしきたかじんさんの伝記。


ゆめいらんかね やしきたかじん伝
角岡 伸彦
小学館
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【抜粋】
●「西成の在日コリアンと産業」(川本綾、 『コリアンコミュニティ研究 vol.3』 所収、こりあんコミュニティ研究会、12年)によると、戦前・戦中、ボルト・ナットの製造で大阪は全国の四割の生産を占め、工員の六割はコリアンだった。韓国の起亜自動車(現・現代自動車グループ)の創業者は、韓国で創業する前に西成でナット製造工場を経営していたという。たかじんの父親もまた、同郷の先輩を頼り、実業家になる夢を見て起業したに違いない。
 同レポートによると、西成のナット製造業者は、釜山、大邱などを含む朝鮮半島南部の慶尚道(現在の慶尚南道と慶尚北道)の出身者が多かった。父親もおそらく南部出身であったと考えられる。ちなみに靴・皮革業に就いていた西成のコリアンの多くは、全羅道や済州島の人が多かった。(p.23)

☆韓国の中でも全羅道や済州島は差別されているようだ。昔で言えば百済。西成では靴・皮革業が多い。気候温暖な米どころとして豊かな食文化を持ち、歌舞音曲にも秀でていることで知られ、著名な料理家や芸能人を輩出してきたそうだ。今でも韓国では芸能人は下に見られているというのはこのあたりが原因か。全羅道出身の大統領は金大中ただ一人。在日韓国人のほとんどは 全羅道・済州島出身者だといわれている。

慶尚道は昔で言えば新羅。西成ではナット製造業者が多い。
ちなみにたかじんの父親は14歳のときに渡日したようだ。



●中二のころ、ラジオから流れるコニー・フランシスのバラード 『ボーイ・ハント』 を聞いて陶然となった。(p.28)

☆これがきっかけで音楽に目覚めた。コニー・フランシスは何を歌っても泣いているように聞こえたそうだ。コニー・フランシスにファンレターを書くために英語塾にも通ったというからすごい行動力だ。





●秋のオーディションに、約二十人の大人にまじって、まだあどけない中学三年生のたかじんの姿があった。生バンドをバックに、その年に大ヒットした三田明の 『美しい十代』 を歌うと、大人たちを押しのけて、月間チャンピオンに選ばれた。(p.32)

☆中学三年生で月間チャンピオンとはすごいな。当時からずば抜けていたことがわかる。





●同級生で、その後、たかじんの歌詞を書くことになる荒木十章(ペンネーム)は、高校時代のたかじん像について次のように語る。
「面白い人やったね。あの人といてたら、飽きひんかった。高校生は将来はこんなことしたいとか、あんなことしたいとか、互いに夢を語るでしょう。そやけど掲げた夢に対しては言うだけで、あんまり努力せえへんわね。あの人の場合は、例えば新聞記者になりたいとか、小説家になりたいとか言うてたけど、それを実現するためにはできることをすぐにやるんです。あんまりフワッとしたことを言わんかった」(p.33)

☆目標を実現するためにできることをすぐにやっていたようだ。



●「これになりたいと思ったら、すぐに行動に移す。どんどんやって、どんどん挫折するわけです。そんなにうまいこといけへんわけですよ。そやけど、やっぱりその行動力が徹底的に僕らと違いましたね。偉いと思いました。僕なんか 『お前は努力をせえへん。軟弱や』 とよう言われました」(p.35)

☆たかじんらしいエピソード。ホステスのお姉ちゃんにもよく説教していたようである。



●結局、桃山学院は一年で中退し、合格した龍谷大学に入学する。たかじんの長い京都時代が始まる。(p.40)

☆たかじんって龍大生だったのか。知らなかった。
ちなみに6年行って中退したようだ。




●京都・龍谷大学経済学部に入学したたかじんは、秋ごろに大阪の実家から、京都市東山区三条にある寺院・信行院の下宿に居を移した。かつては寺に関係する僧侶が使用していた、いわば簡易宿泊所だった。(p.42)

☆お寺に住んでいたのか。今はもうその下宿は取り壊されているようだ。

左京区に信行寺というのがあるが、その寺とは関係がないのだろうか。
伊藤若冲の天井画「花卉図(かきず)」で有名だ。



●記者よりも歌手になることに魅力を感じていたのであろう。記者はともかく歌手になることに、韓国人の父親が烈火のごとく反対したことは想像に難くない。朝鮮半島では芸能人は低く見られたからである。父親に勘当され、たかじんは家を出る。(p.43)

☆朝鮮半島では芸能人が低く見られていたというのは初めて知った。全羅道や済州島の差別が根底にあるのであろう。



●四条通の南側には、お茶屋が並び、夕刻には、お座敷に向かう艶やかな和服姿の舞妓、芸妓の姿を見ることができる。古都の情緒をかもしだす風景である。四条通の北側は一転して、バーやクラブがひしめきあうネオン街が広がっている。
 たかじんは、二十歳前後から三十過ぎまでの夜の大半を、ここ祇園のクラブやスナックで歌手として過ごした。夜のネオン街を、ギターケースをかつぎながら自転車をこぎ、店から店へと渡り歩いた。(p.51)

☆夕方に舞妓さんや芸妓さんの姿を見ることができるらしい。たかじんは20代を祇園で過ごしていた。1日4件の店を回っていたようである。午後八時から約8時間で合計100曲くらい歌い(実質4時間くらい歌い)、のどから血が出ることもあったという。月収は60万円を超えていたがほとんど酒代で消えていった。



●ホリデーバーガーに通っていた近畿放送の田中は、たかじんに話術を学ばせるため、桂米朝の落語全集のレコードを貸したことがある。
 のちにテレビの司会者として一人でしゃべっている映像を見ると、落語の間合いで語っていることがわかる。(p.55)

☆試しに聴いてみたらそっくりだった。

落語 天狗裁き 桂米朝
https://www.youtube.com/watch?v=CqYoGa6mQRk



●ダビング用のビデオ八台は、テレビにひんぱんに出演し出して以降、仕事に活用される。ドラマ、バラエティー、ドキュメント、ニュースなどを録画し、何が視聴者に受けるのかを研究し、自分の番組づくりに生かした。番組の収録やコンサートがない日は、1日10〜15時間はテレビ画面を見ることに費やされた。(p.105)

☆たかじんといえば、毎日テレビを(たくさんのビデオデッキで録画して)大量に見ていたことで知られるが、どこでその時間を捻出していたのだろう? どういう見方をしていたのだろう?
本当に不思議だ。
しかも当時はハードディスクレコーダーとかもなく、ビデオデッキだし。
つまらないと感じたドラマも苦しいと思いながらも見続けたそうだ。
と言うことは、1時間番組を5分で見るような飛ばし見をしていたわけでもなさそうだ。



●ほどなくして、シングルと同じタイトルのアルバムを出す。ビクターから出した 『あんた』 の作詞・作曲を担当した伊藤薫らに混じって田中が起用したのが、作詞家の及川眠子だった。(p.151)

☆こうして、たかじんの一番の代表曲 『東京』 が生まれた。



●「これまで誰にも言ってないんですけど、あのメロディーは、当時のアイドルの畠田理恵用に依頼した中にあった曲で、初めて聴いたとき、これ、たかじんさんやったら売れるんちゃうかなという気がしたんですよ。(p.155)

☆もともとアイドルの畠田理恵用の曲だったのか。こういう裏エピソードは面白い。



●詞と曲の次は編曲である。どんなイメージの曲にするか。そのためにどんなイントロ、テンポにし、どんな楽器を使うか。編曲によって楽曲は大きく変わってくる。田中は編曲担当の川村栄二と打ち合わせに入った。
「このままだったら売れない気がするので、何かまったく別の曲になったようにしませんか?」
田中の提案に川村も同意した。
「面白いね! エスニックなムードがあるから、ラテンだったら堪えられるんじゃないの」
「ラテン、いいですね! おばちゃん、おっちゃんが歌って踊れる姿を思い浮かべながらやりますか!」
 アイドル用に書いた曲を、中高年が歌って踊れる作品に変身させようというのだから、編曲家とはまことに魔術師である。
 できあがったのは、リズムといいメロディーといい、ラテンミュージックとしか思えない作品に仕上がった。後に作曲した川上明彦は、レコーディングを終えた音を聴き、「これ、ほんとに俺の曲なの!?」と驚いたという。(p.157-158)

☆アレンジでまったく違う曲に生まれ変わったという。

ちなみに、川村栄二さんは、たかじんのもう一つの代表曲である 『やっぱ好きやねん』 を編曲した人でもある。(作詞・作曲は鹿紋太郎)



● <僕はテレビにでても、緊張も何もせえへん。あんなもん、屁みたいなもんや。コンサートやレコーディングやるときなんか、テレビの100倍は緊張するからね> ( 『Views』 94年6月8日号、講談社) (p.194-195)

☆しかもテレビの方がはるかにお金を稼げる。野田マネージャーを切ってテレビの方にシフトしていったのも当然だといえる。



●ちなみに両方の番組に出演していた三宅久之は、それぞれの違いについて「地方では 『タックル』 よりも 『委員会』 で発言したことに対する反響のほうが大きい。 『タックル』 は番組の流れがあらかじめ分かるようになっているが、 『委員会』 は流れがまったく読めなくて、パネラー同士でも本当に激論になるんです」と語っている( 『アエラ』 01年10月3日号、朝日新聞出版)(p.205)

☆『タックル』 を見ていると、ここからおもしろくなりそうなのに阿川さんさえぎっちゃったよーってことが多いが、『タックル』 には台本があったからなのか。




●私が 『委員会』 を次第に見なくなったのは、バラエティ番組が政治家に都合よく利用されている気がするからだった。(p.214)

☆政治家に利用されていたのではなく、むしろ庶民の生活をよくするために政治家を利用していたのではないか。

大阪維新の会がしりすぼみになったのは
たかじんがいなくなったことが大きな原因であろう。


ちなみに今ふと気になって調べてみたら、橋下元大阪市長が従軍慰安婦問題でやり玉に挙がっていた時期は
たかじんが復帰後、ガン再発で二回目の休養をした時期のすぐ後だった。




● 『俺の歌をちゃんと歌てくれへんかった。悔しい』 いうて涙ぐんでいるいうねん。
(中略)  
 よほど自分の歌を松山がうまく歌ってくれなかったのが悔しかったのであろう。当日の映像には、松山が歌詞を間違えると、苛立ちながら何度も楽譜を指差す姿が映っている。(p.227)

☆その時の映像がYouTubeにあった。
東京 / やしきたかじん & 松山千春



なごやかに歌っているように見えるけど・・・?




●ところがその一週間後、縫合不全に陥る。文字通り、手術で縫い合わせた接合部に綻びが生じる合併症である。たかじんから相談を受けていた医師の伊東が解説する。
(中略) 手術の前に抗ガン剤とか放射線とかを入れると、わかりやすい話が筋肉がボロボロになるんですよ。(p.240)

☆縫合不全を裁縫にたとえると、二つの布を丁寧に縫い合わせても、上下に負担がかかれば外れやすくなる。その布がボロボロであればなおさらというわけである。
つまり、縫合に失敗したというわけではなく、手術の前に抗ガン剤とか放射線を入れたことが縫合不全の原因というわけである。



●好物のマクドナルドのフィレオフィッシュを平らげるなど、旺盛な食欲を見せ、主治医を驚かせている。(p.241)

☆たかじんはハンバーガを食べないという話を思い出した。


【号泣】やしきたかじんがハンバーガーを食べないワケ。
https://www.youtube.com/watch?v=oNIIncqBEfo









【アクションプラン】
・桂米朝の落語聴く。喋りを身に付けたい。

・たかじんの自著を読みたい。




【評価】
評価:★★★★☆
こんな人に、こんな時におすすめ:
殉愛』 や 『百田尚樹『殉愛』の真実』 を読んで興味を持ったら。


posted by macky at 23:37 | Comment(0) | TrackBack(0) | ノンフィクション | edit | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする