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2013年05月08日

三宅久之の書けなかった特ダネ

三宅久之の書けなかった特ダネ (青春新書インテリジェンス)
三宅 久之
青春出版社
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【概要】
「今、私が書き残しておかなければ永久に歴史の闇に埋もれてしまう事実がある」―鳩山一郎、岸信介、田中角栄…そして小沢一郎、時代をつくり変える政治家の器とは何か。(「BOOK」データベースより)

副題は、「昭和〜平成政治、25の真実」



【動機】
たかじんのそこまで言って委員会やTVタックルなどで大活躍していた三宅さんの遺言ともいえる本。


【所感】
三宅さんしか知り得ないようなことがたくさん出てくるが、
それを公表したところで世間があっと驚くようなことでもなく、
そういう意味では、いわゆる特ダネっぽいのは無かった。

政治記者から見た政治の舞台裏という感じで気軽に読める。

あと思ったのは、三宅さんはご自身が関わったことは深く知っているが、関わってないことはあまり知らない、あるいは触れない。ご自身の見聞きしたことをとても大切にしているお方だと感じた。つまり、あくまで三宅さんにとっての真実であって、どこまで本当なのかは想像するしかない。



【抜粋】
●渡邉は岸―池田時代を通じて副総裁だった大野伴睦と極めて親しかった。しかし、彼は大野からビタ一文、カネをもらったことはなかったと筆者は信じている。(p.6)

☆ナベツネさんと大野伴睦の関係もおもしろそうだ。


●総理総裁であり選挙対策本部長の池田がこういった。
「最後の最後だが、本部長である私の趣味を一つ聞いてもらえんだろうか」
「何でしょうか」
「私の趣味としては田中六助君を追加公認してもらいたい」
 すると、副総裁の大野伴睦が手を挙げた。
「それでは選対副本部長のワシの趣味も一つ、どうか聞いてもらいたい。私の趣味は中川一郎君だ」
 中川は当時、大野伴睦の秘書を務めていた。(p.42-43)

☆政治というのはおもしろいなぁ。ちなみに田中六助も池田勇人の秘書である。


●夕方になって緒方が出てきて、一緒にいた日経新聞の越智勝幸記者と筆者を手招きして、
「これから銀座に食事に行くが、よかったら一緒に来ないか」
 と声をかけられた。
 今もあると思うが「ハゲ天」という天ぷら屋で、緒方は酒を呑みながら親父と雑談し、筆者らに「上天丼」をご馳走してくれた。(p.46)

☆三宅さんが副総理番をしていたときの話。(吉田内閣の)副総理・緒方竹虎は朝日新聞社の編集局長、主筆、副社長を歴任。新聞界で神格された人物だという。鳩山一郎の最大のライバルでもある。たまたまこの前、「ハゲ天」という天ぷら屋を見つけけど、値段が高くて入らなかったのだが、そういうエピソードを知っていたらちょっと入ってみたくなる。


●この剛直で不器用な池田を首相の座に就け、「寛容と忍耐」を旗印に、安保で荒廃した人心を、「あなたの給料が二倍になります」と所得倍増、高度成長路線に切り替え、民心を掌握していったのは大平正芳、宮沢喜一、黒金泰美らかつての秘書官グループと、伊藤ら心酔者による献身的なバックアップがあったからにほかならない。(p.59)

☆ 『戦後政治史』 を見ても、 <池田自身と、前尾繁三郎、大平正芳(のち首相)、宮沢喜一(同)ら側近達が演出した、みごとな転換であった。> と書かれてある。列記している人物はちょっと違うけど、側近達のバックアップがあったのは大きい。大平、宮沢などは首相になってからよりもこのときのほうが活躍してるかもしれない。


●早坂茂三は著書 『宰相の器』 (クレスト社)の中でこう書いている。
『「頂上を極めるためには敵を減らすことだ」――こう私に言ったのは、恩師・田中角栄である。時に角栄は四十四歳の大蔵大臣、 (中略) 人の好き嫌いはするな。誰に対しても一視同仁。 (中略) 他人のために汗を流せ。できるだけ面倒を見ることだ。手柄は、先輩や仲間に譲れ。損して得を取れ。ドロから逃げるな。進んでドロをかぶれ。 (中略) 「それを長い間、続けていれば敵が減る。多少とも好意を寄せてくれる広大な中間地帯ができる。大将になるための道が開かれていく。頂上を極めるには、それしかない」』と。(p.63)

☆田中角栄の天下取りの戦略。


●佐藤をもっとも嫌った大野伴睦は前年の64(昭和39)年5月に死去、政敵河野一郎は65(昭和40)年7月死去、煙たかった池田勇人も同年8月死去するなど、佐藤にとって手強かった政治家は相次いでいなくなった。(p.70)

☆大野伴睦がもっと長生きしていれば、佐藤の前に総理になっていたのだろうか?


●田中派結成に当たって、田中がねらいを定めたのは参院である。 (中略)
 もともと参院の全国区選出議員は組織、団体の代表という色彩が強く、選挙区選出議員は衆院の複数の派閥の後援会組織に選挙運動を依存しているので、特定の派閥色の強い議員は比較的少ない。 (中略)
 田中派(木曜クラブ)に参院議員が多かったのは竹下派(経世会)にも引き継がれ、小沢一郎が92(平成4年)の会長争いで小渕恵三に敗れたのも、自民党参院のドンと呼ばれた青木幹雄が竹下の指示で参院を小渕でまとめたためといわれた。(p.118)

☆参院不要論も出ていて、あっても無くても変わらないようなイメージをもたれているが、参院を制した者が勝つという結果になるのもおもしろい。角栄はそれを見切っており、戦略的に参院にウェイトを置いていた。小沢が小渕に敗れたのも、参院を竹下が握っていたから。


●総裁選で田中が勝つためには、弱小派閥ではあったが三木、中曽根両派の協力が不可欠だった。この両派は協力の条件として、「日中国交回復」政権公約に入れることを要求した。(p.121)

☆角栄といえば、日中友好が思い浮かぶが、三木、中曽根の思惑だったのか。


●「明日、正式に裁定が伝えられた時、三木先生“身に余る重圧で、直ちにお引き受けすることは即答しかねる”と、いったん裁定を椎名副総裁にお返し願いたい、というのが椎名先生の意向です」(p.136)

☆椎名裁定は三木武夫が断るのが前提だったとは知らなかった。それをあっさり受け入れた三木さんのしたたかさ。でも、そんな形で三木さんが首相になっても足を引っ張られるのはわかっていそうなものだけど。うーん、権力欲なのかな。


●52(昭和27)年の総選挙で政界返り咲きをねらうが、ちょうど鳩山派の軍師として政界復帰を期した三木武吉と選挙区で鉢合わせることとなる。 (中略) はじめに立った福家が三木のことを暗に指して、
「戦後男女同権となったが、この選挙区には妾を三人も連れてきている不徳義漢が立候補している。このような男を当選させてはならない」
次いで立った三木はこう演説した。
「只今、フケ(福家)ば飛ぶような男が吾輩のことを指して妾が三人いるといったが、これは大間違い、正しくは四人であります。彼女らは戦時中、東京が空襲で住めなくなったので、 (中略) これがけしからんというのであれば、どうぞ吾輩を落としていただいても結構です」
 場内から万雷の拍手を浴びて、選挙結果は三木が一意当選、福家は最下位の六位で落選した。(p.156-157)

☆「政界の怪物」と呼ばれた福家俊一について。というより、三木武吉を引き立てるようなエピソードだ。ちなみに、『戦後政治史』 によると、三木武吉や大野伴睦らは自民党を実質的に作った人たちである。初代総裁は鳩山一郎がすんなり選ばれたが、これは鳩山の最大のライバル緒方竹虎が急死したためである。



●それ以来、選挙で圧勝することが中曽根首相の悲願だったが、大平内閣当時の80(昭和55)年、衆参同日選挙で自民党が両院で大勝したことが脳裏にあったことは間違いない。86(昭和61)年6月22日に予定される参院選挙に合わせて、衆院選挙を行う体制づくりに取り組んでいた。(p.189)

☆いわゆる「死んだふり解散」である。
衆参同日選挙は今年の安部政権でも行われる可能性がある。
まさに歴史は繰り返す。「一票の格差」問題で違憲との判決が出てるところまでそっくりだ。
このあたりの歴史を丹念に拾っていけば、未来が予測できるかもしれない。


●ところが国会閉幕日の5月22日、坂田衆院議長裁定の形で定数一人増となる公職選挙法の改正が成立。その定数増の周知期間が30日間という付則のため、事実上その30日間は首相の衆院解散権がしばられる形となった。(p.190)

☆要するに、5月22日に改正法案が成立。そこから30日間(公布の日から起算)、つまり6月20日までは総選挙の公示ができない。よって衆参同日選挙ができない(参院選の予定日は6月22日。衆院選の公示は12日前まで、つまり6月21日に公示した場合、早くても7月3日なので)ということだが、ならば参院選の選挙日をもっと後にしてしまおう、参院の任期満了はいつ?ってわけである。


●実は同日選に意欲を示す中曽根首相、後藤田官房長官らは自治省選挙局と綿密に日程を検討した結果、参院選の投票日を改選議員の任期満了となる7月7日の1日前、6日に設定し、衆院を6月1日から5日までの間に解散すれば、一ヶ月間の周知期間もクリアして、同日選は可能との結論を得ていたのである。(p.190)

☆結局、6月2日に解散している。(6月21日衆院選公示、7月6日同日選)。「6月1日から5日までの間」というのは、何の期間だろう? ちょっと調べてみたけど、これは不明。解散から40日以内なので5月27日からではないのか? ある程度死んだふりして不意をつかないといけないから解散をできるだけ遅らせるという意味かな? では6月6日の解散だとなぜダメなのか? 三宅さんの真意は?

ちなみに、この時の大勝で中曽根さんは自民党総裁の任期を2年から3年に延ばし、長期政権を築いた。


●さきがけの武村が河野に難色を示し、河野首班が壊れたことになっているが、実は休憩をとって河野が幹事長の森善朗に党内の意向打診を頼んだ。すると、経世会、なかでも会長の小渕恵三が絶対反対を表明した。これで河野が断念したのが真相である。
 小渕は河野を指して「ロッキード事件で自民党が一番苦境にあった時、自民党の歴史的指名は終わったと後足で砂をかけるように離党した。河野首班なら本会議での首班指名選挙に同調しないこともある、と強硬姿勢だった」という。(p.196)

☆参院で社会党が惨敗したにも関わらず、村山首相続投となったわけだが、
その後、橋本首相の跡継ぎを決めるときも、河野は総理になれなかった。

松田賢弥 『闇将軍―野中広務と小沢一郎の正体』 (講談社)で、野中さんは

<――河野(洋平)はどうか。

「ない。自民党は彼を認めない」>

と言っている。そして結局、小渕首相が誕生した。

「洋平さんは自民党総裁になりながら唯一総理になれなかった悲運の政治家だといわれたが、衆院議長になって野党の信頼を得て史上最長の議長職を務めた。これは政治家冥利に尽きる人生ではないか。人間万事、塞翁が馬である」と締めくくっている。河野一郎番で洋平氏を学生の頃から見ている三宅さんならではの暖かい言葉である。




【アクションプラン】
・今年の国会閉幕は6/26。そこから24日〜30日後の日曜日と言うと、7/21。(2013年1月28日に召集された第183回国会は、同年6月26日までの150日間)。ということで、7/21に参院選が行われる予定だが、衆参同日選挙をシミュレートしてみたい。逆算していけば、近々大きな動きがあるだろう。 →済(130509)



【評価】
評価:★★★☆☆
こんな人に、こんな時におすすめ:
三宅さんが好きな人全員に。

 
posted by macky at 23:32 | Comment(0) | TrackBack(0) | 政治 | edit | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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