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2012年08月11日

ヒロシマ―絶後の記録

ヒロシマ―絶後の記録
小倉豊文/著(太平出版社) 1971年 (初版は1948年)


【概要】
副題は、「広島原爆の手記」
シリーズ・戦争の証言の第3巻。
数多い原爆記録のなかの「最初」の貴重な文献とされている。
本書の初版本 『絶後の記録―広島原子爆弾の手記』 (中央社・昭和二三年一一月刊)は、永井隆 『ロザリオの鎖』 (ロマンス社・昭和二三年六月刊)と並んで被爆後もっとも早い時期に刊行された単行本の原爆体験記のひとつで、十数カ国に翻訳されている。

絶後の記録―広島原子爆弾の手記 (中公文庫BIBLIO20世紀)』 と同じものだろう。


【動機】
テレビで紹介されてたので。


【所感】
貴重な資料である。

グーグルの地図で地名を確認しながら読んでたら広島の地理がだいたい頭に入った。


【抜粋】
●爆発の中心すなわち「爆心」が、護国神社の鳥居の南方約120メートル、地上から約600メートルの上空だということが明らかになったのだ。それは広島郵便局等北端の上空約550メートルだという説もあるが、とにかく郵便局とその北隣のあの懇意にしていたSさんの病院と、あるいはそのうしろの西蓮寺のあたりを普通に「爆心地」といっているのだ。(p.153)

☆産業奨励館、つまり現在の原爆ドームあたりが爆心地かと思っていたが、実際はもうすこし南東、現在の島外科内科あたりだそうだ。
当初の投下目標は相生橋だったとされる。


●おれは、なにかついでがあると、この爆心地のあたりをぶらぶらする。二〜三日まえも歩いてきたよ。
 すぐ隣の産業奨励館の廃墟も、感慨が深い。あの古い、ちょっと日本ばなれの趣きのドームのある煉瓦造りは、広島の名物でもあったね。(p.156)

☆原爆が落とされる前からあの建物は名物だったのか。


●考えてみると、「軍都広島」の由来は古い。そもそも毛利氏の城下町としての出発が「軍都」だったのだ。明治以後も鎮台が師団になり、大本営がおかれ、日清・日露・前大戦からこんどの戦争まで、全陸軍の玄関口であり、大きな軍需基地であり、重要な作戦拠点として、ついに世界にその名を知られるようになったのだ。

☆広島は陸軍の拠点の一つだった。原爆を落とすつもりだったからあまり空襲をしなかったが、そのため広島には多くのスパイがいると言われていたそうだ。


●広島の廃墟の中でぜひおまえに報告しておきたいものがも一つある。それは紙屋町の住友銀行だ。いや、あの銀行の入口の石段なのだ。あの石段に向かって右の隅に、石材の色がひときわ黒ずんだところがある。現在あのビルディングは、おまえの生前より表面全体が白っぽく光っている。これは原子爆弾の熱線で、表面全体が一瞬間で変質したのだ。ところがその瞬間に一人の人があの入口の石段の右隅に腰かけていた。その人は膝を折り曲げ、片手を膝頭に頬杖し、うなだれてなにか考えていた。あるいは茫然無心でいたのかも知れない。そこへ、あの原子爆弾の光と熱がパッときた。(p.213)

☆この「考える人」は「死の人影」と言うそうです。
調べてみると、1971年の支店新築に伴い、原爆資料館に移転されたらしい。
原爆資料館には行ったことがあるから見てると思います。


【アクションプラン】
・『ロザリオの鎖』 をいつか読んでみたい。

・宮沢賢治 『祭の晩』 を読んでみる。(空気獣) →読了(120820)


【評価】
評価:★★★☆☆
こんな人に、こんな時におすすめ:
日本人なら一度は読んでおきたい本の一つ。


(120811 読了)
posted by macky at 21:23 | Comment(0) | TrackBack(0) | 体験記・手記 | edit | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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