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2015年08月07日

わが回想のルバング島

わが回想のルバング島―情報将校の遅すぎた帰還
小野田 寛郎
朝日新聞社
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わが回想のルバング島―情報将校の遅すぎた帰還
小野田寛郎/著 (朝日新聞社) 1988年
1,200円+税



【概要】
フィリピン・ルバング島で終戦後も戦い続けた小野田さんの手記。


【動機】
陸軍中野学校について知りたい。

小野田さんが昨年亡くなったので一度手記を読んでみたいということで。



【所感】
すさまじい記憶力。
気ままなジャングル生活かと思いきや、
日々、緊張感をもって戦い続けていたことがわかる。

もともと4人で生活していたということも今回初めて知った。

小野田さんというと人の良さそうなおじいさんというイメージだったが、
これを読むと、若い時は現役バリバリの兵士だったことがわかる。



【抜粋】
●「小野田見習士官は、ルバン(グ)島へおもむいて、同島警備隊の游撃隊を指導せよ」
・・・(中略)・・・
「玉砕はいっさい、まかりならぬ。三年でも、五年でも、がんばれ。必ず、迎えに行く。それまで、兵隊が一人でも残っているあいだは、ヤシの実をかじってでも、その兵隊を使ってがんばってくれ。いいか。重ねていうが、玉砕は絶対に許さん。わかったな」(p.44-46)

☆小野田さんの任務だ。



●八月中旬に入ると、山の稜線の道を毎日のようにパトロールし、発砲していた敵の姿が見えなくなった。この時が日本の終戦時と符合するのだが、我々には全くわかるはずもない。敵は我々の執拗さに少しあきれて手を抜き始めたな、ぐらいにしか考えなかった。(p.60)

☆終戦を迎えたら当然、敵も攻撃してこない。後から考えればわかることだが、その現場にいたらなかなか分らないだろう。



●我々三人は、赤津が去ってからは従来と打って変わって積極的な戦法に出た。強者の集団になった我々は、まるで春に木々の芽がふくように活動を始める。それまで四年間というもの、自重しきったために、食料は乏しく、また被服も修理に修理を重ねてボロボロになっていた。一日も早く被服も食料も十分にし、勢力を挽回し、住民が山奥へ出入りするのを止めさせなければならない。(p.85)

☆足手まといだったメンバーがいなくなったことで、積極戦法に切り替えることができた。


●私が終戦、敗戦を信じなかった理由に次のようなことがある。
・・・(中略)・・・
長期戦下では表面の戦争とは裏腹に敵と商取引(適地との物資交換)をしたり、ときには軍の作戦上のことでも取引さえあることを私は知った。また、蒋政権(重慶)と日本が樹立した汪政権(南京)との関係も知っていた。(p.121)

☆日本本土が占領されても、大陸にいる日本軍が蒋介石軍と手を握り、中共(中国共産党)軍やアメリカと戦っていると信じていたようである。



●「命が惜しくて未練たらしく生きてきたのではありません。命令で死ぬなと命ぜられた結果として生き残ったまでです。」(p.234)

☆そういって小野田さんは軍刀を鷲づかみにして引き抜こうとしたという。親子の感動の対面の直後にケンカになったという話。せっかく生きて帰ってきたのに、こんなこと言わせるなんて悲しいな。




【アクションプラン】
・小野田寛郎さんの動画を見た。


小野田寛郎さん従軍慰安婦を語る(12:54)

☆当時から朝鮮人というのがプライドが高かったのがわかる。
日本人は宣伝が下手。だからいつのまにか悪者にされてしまう。
宣伝はウソも必要。アメリカ人はすぐにわかる嘘をつくが、
中国人は謀略に長けていて、うそかほんとかいつまでもわからない。



【評価】
評価:★★★☆☆
こんな人に、こんな時におすすめ:
小野田さんがどうやって30年もジャングルで生き抜いたのか知りたいときに。

 
posted by macky at 23:27 | Comment(0) | TrackBack(0) | 体験記・手記 | edit | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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