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2018年03月05日

蘇我氏の正体

蘇我氏の正体
関裕二/著 (新潮社) 2009年 (単行本は2008年)
476円+税


【動機】
藤原氏の正体』 を読んで興味を持った。



【所感】
結局この二冊を読んでわかったのは、

藤原氏が今の官僚や特権階級の祖先で、

蘇我氏は今の天皇の祖先ということ。



では、物部氏は?ということで、続いて 『物部氏の正体』 も読みたくなった。




【概要】
大化改新での「入鹿誅殺」により、悪の象徴として記憶されてきた蘇我氏。以降、歴史の表舞台から姿を消した彼らは一体何者だったのか?最新の研究成果と、著者独自の調査で明らかになる衝撃の出自。その隠蔽工作に奔走する藤原氏の裏の顔。祟り、朝鮮半島、天皇、そして浦島太郎など古代史に散らばるキーワードから、悲劇の一族の全貌を大胆な解釈で捉え直す、渾信の本格論考。(「BOOK」データベースより)


蘇我氏の正体 (新潮文庫)
関 裕二
新潮社
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【抜粋】
●付き従ってきた三輪文屋君は山背大兄王に、次のように進言した。
「どうか深草屯倉(京都市伏見区。秦氏の地盤でもある)に移られ、そこから東国に馬で逃れてください。乳部の兵を率いてもどってこられれば、勝利は間違いありません」
 だが山背大兄王は、首を縦に振らなかった。(p.23-24)

☆山背大兄王は生きのびるチャンスがあったのに、蘇我入鹿にみすみす滅亡させられたそうだ。山背大兄王を聖人とすることで蘇我入鹿を悪人とするためだという。


●蘇我入鹿が「林」とも呼ばれていたこと、その「林氏」は、「新撰姓氏録」には、百済人の末裔と記録されていることからも、蘇我氏が百済出身であった蓋然性は高くなるとする。(p.107)

☆林氏は百済人の末裔だという。

「新撰姓氏録」について調べてみると、

『新撰姓氏録』(しんせんしょうじろく)は、平安時代初期の815年(弘仁6年)に、嵯峨天皇の命により編纂された古代氏族名鑑。

[概要]
京および畿内に住む1182氏を、その出自により「皇別」・「神別」・「諸蕃」に分類してその祖先を明らかにし、氏名(うじな)の由来、分岐の様子などを記述するものであるが、主として氏族の改賜姓が正確かどうかを判別するために編まれたものである。後述するように、記載氏族が限られているとはいえ、日本古代氏族あるいは日本古代史全般の研究に欠かせない史料である。

現存する『新撰姓氏録』は、目録だけの抄記(抜き書き)であって本文は残っていないが、所々にその残滓が認められるとともに、若干の逸文が知られている。なお、本書の対象とする範囲は京(左京・右京)と五畿内に住む姓氏に限られており、また「序」にはそれすらも過半が登載されていないと記している。

なお、書名に「新撰」とつくのは、企画倒れで終わった『氏族志』のやりなおしという意味であって、『新撰姓氏録』以前に『姓氏録』なる書が存在していたわけではない。



[構成]
本書には、全部で1182氏姓が記録され、その出自により「皇別」・「神別」・「諸蕃」に3分類されている。

皇別
筆頭にあげられた「皇別」の姓氏とは、神武天皇以降、天皇家から分かれた氏族のことで、335氏が挙げられている。代表的なものは、清原、橘、源などがある。皇別氏族は、さらに、皇親(「真人」の姓(カバネ)をもつ氏族)とそれ以外の姓をもつ氏族に分かれる。

神別
「神別」の姓氏とは、神武天皇以前の神代に別れ、あるいは生じた氏族のことで、404氏が挙げられている。神別姓氏は、さらに、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が天孫降臨した際に付き随った神々の子孫を「天神」とし、瓊瓊杵尊から3代の間に分かれた子孫を「天孫」とし、天孫降臨以前から土着していた神々の子孫を「地祇」として3分類している。

「天神」に分類された姓氏は藤原、大中臣など246氏、「天孫」は尾張、出雲など128氏(隼人系の氏族は天孫に分類される。)、「地祇」は安曇、弓削など30氏がある。

諸蕃
「諸蕃」の姓氏とは、渡来人系の氏族で、秦、大蔵など326氏が挙げられている。諸蕃氏族は、さらに5分類され、「漢」として163氏、「百済」として104氏、「高麗」(高句麗を指す)として41氏、「新羅」として9氏、「任那」として9氏がそれぞれ挙げられる。

また、これらのどこにも属さない氏族として、117氏が挙げられている。(「Wikipedia」より)





新撰姓氏録については、次のサイトに一覧があった。

『新撰姓氏録』氏族一覧1(第一帙/皇別)
http://kitagawa.la.coocan.jp/data/shoji01.html

『新撰姓氏録』氏族一覧2(第二帙/神別)
http://kitagawa.la.coocan.jp/data/shoji02.html

『新撰姓氏録』氏族一覧3(第三帙/諸蕃・未定雑姓)
http://kitagawa.la.coocan.jp/data/shoji03.html





さらに、氏姓制度について調べてみると、

氏姓制度(しせいせいど)とは、古代日本において、中央貴族、ついで地方豪族が、国家(ヤマト王権)に対する貢献度、朝廷政治上に占める地位に応じて、朝廷より氏(ウヂ)の名と姓(カバネ)の名とを授与され、その特権的地位を世襲した制度。「氏姓の制(ウヂ・カバネのせい)」ともいい、「氏・姓」を音読して「氏姓(しせい)」ともいう。

大化の改新ののち、律令国家の形成におよぶと、戸籍制によって、氏姓はかつての部民(べみん)、つまり一般民衆にまで拡大され、すべての階層の国家身分を表示するものとなった。氏姓を有しない者は、天皇をはじめとする皇族と奴婢のみとなった。



[氏姓制度の成立]
原始共同体においては、氏族や部族が社会の単位となった。

氏姓制度の基盤は、血縁集団としての同族にあったが、それが国家の政治制度として編成し直された。その成立時期は、5〜6世紀をさかのぼらない。同族のなかの特定の者が、臣、 連、伴造、国造、百八十部(ももあまりやそのとも)、県主などの地位をあたえられ、それに応ずる氏姓を賜ったところに特色がある。各姓は以下のごとくである。

臣(おみ)
葛城氏、平群氏、巨勢氏、春日氏、蘇我氏のように、ヤマト(奈良盆地周辺)の地名を氏の名とし、かつては王家と並ぶ立場にあり、ヤマト王権においても最高の地位を占めた豪族である。

連(むらじ)
大伴氏、物部氏、中臣氏、忌部氏、土師氏のように、ヤマト王権での職務を氏の名とし、王家に従属する官人としての立場にあり、ヤマト王権の成立に重要な役割をはたした豪族である。

伴造(とものみやつこ)
連とも重なり合うが、おもにそのもとでヤマト王権の各部司を分掌した豪族である。弓削氏、矢集氏(やずめ)、服部氏、犬養氏(いぬかい)、舂米氏(つきしね)、倭文氏(しとり)などの氏や秦氏、東漢氏、西文氏(かわちのふみ)などの代表的な帰化人達に与えられた氏がある。連、造(みやつこ)、直(あたい)、公(きみ)などの姓を称した。

百八十部(ももあまりやそのとも)
さらにその下位にあり、部(べ)を直接に指揮する多くの伴(とも)をさす。首(おびと)、史(ふひと)、村主(すくり)、勝(すくり)などの姓(カバネ)を称した。

国造(くにのみやつこ)
代表的な地方豪族をさし、一面ではヤマト王権の地方官に組みこまれ、また在地の部民を率いる地方的伴造の地位にある者もあった。国造には、君(きみ)、直(あたい)の姓が多く、中には臣(おみ)を称するものもあった。

県主(あがたぬし)
これより古く、かつ小範囲の族長をさすものと思われる。いずれも地名を氏の名とする。
このように、氏姓制度とは、連―伴造―伴(百八十部)という、王のもとでヤマト王権を構成し、職務を分掌し世襲する、いわゆる「負名氏」(なおいのうじ)を主体として生まれた。そののち、臣のように、元々は王とならぶ地位にあった豪族にも及んだ。



[部民制]
氏姓は元来はヤマト王権を構成する臣・連・伴造・国造などの支配階級が称したものである(王とその一族を除く)。しかし、6世紀には一般の民にも及んだ。これらの一般の民は、朝廷すなわち、天皇、后妃(こうひ)、皇子らの宮、さらに臣、連らの豪族に領有・支配されていた。そのため、一般の民の中から、朝廷に出仕して、職務の名を負う品部(しなべ)、王名、宮号を負う名代・子代、屯倉の耕作民である田部などが必然的に生まれた。彼らは先進的な部民共同体の中で戸を単位に編成され、6世紀には籍帳に登載されて、正式に氏姓をもった。

これに対し、地方豪族の支配下にあった民部(かきべ)は、在地の族長を介して、共同体のまま部(べ)に編入し、族長をへて貢納させる形のものが多かった。そのため、地方豪族の支配下にあった一般の民にまで6世紀の段階で氏姓が及んでいたかどうかは定かではない。



[律令国家による再編]
大化の改新により、氏姓制度による臣・連・伴造・国造を律令国家の官僚に再編し、部民を公民として、一律に国家のもとに帰属させた。

(中略)

八色の姓
684年(天武天皇13年)に、「八色の姓」が制定された。その目的は、上位の4姓、つまり真人、朝臣、宿禰、忌寸を定めることである。真人は、継体天皇より数えて5世以内の世代の氏に与えられたといわれ、皇子・諸王につぐ皇親氏族を特定したので、飛鳥浄御原令で官位を皇子・諸王と貴族(諸臣)とで区別したことと共通する。したがって、貴族の姓としては、朝臣、宿禰、忌寸の3つである。以上が「甲子の宣」の大氏、小氏、伴造氏の発展形であり、その間にさらに氏族の再編が進められ、朝臣52氏、宿禰50氏、忌寸11氏に収められた。




●伽耶から渡来したと思われる東漢氏などは、蘇我氏の飛鳥の拠点・甘樫丘を警護し、また乙巳の変で入鹿が殺されたのちも、唯一蘇我宗本家を守り抜こうとしたことで名高い。このような渡来系豪族の固い絆も、蘇我氏の出自を暗示しているのかもしれない。(p.108)

☆東漢氏は伽耶から渡来。伽耶(任那)、百済、新羅、高麗など明確に出自が分かれているのもおもしろい。



●弥生時代の日本列島で、もっとも栄えた地は北部九州だった。朝鮮半島に近いという地の利を得て、他を圧倒していたのである。
(中略)
ところが、筑紫平野の南方には激しくヤマトに対抗しようとする勢力が残された。それが、邪馬台国の卑弥呼を盟主とする国々にほかならない。
 北部九州の軍事と流通の要衝となる高良山(福岡県久留米市御井)から女山(福岡県みやま市瀬高町大草字女山)にかけての一帯を城塞化し、「親魏倭王」の称号を獲得してヤマトに対峙した卑弥呼であったが、「出雲(+ヤマト)」のトヨが長駆遠征し、これを滅ぼしたと考えられる。(p.181-182)

☆おお、邪馬台国はそんなところにあったのか。

ちなみに、女山のあたりは、みやま市と合併する前は山門郡(やまとぐん)という地名だったそうだ。



●「魏志倭人伝」には、次のようにある。すなわち、卑弥呼の死後、いったん男王が立ったが、国中服さず、戦乱が勃発した。そこで卑弥呼の宗女台与が担ぎ上げられ、混乱を収拾したとある。すなわち、仲哀天皇は卑弥呼亡き後倭国の王に君臨した「男王」であった。ところがみな不平不満を言いだし、混乱したので、台与=神功皇后が政権を掌握した、ということになる。これなら、 『日本書紀』 の記述と、ほぼ矛盾がなくなる。そして、仲哀天皇は神功皇后らに殺された、ということになるのだろう。(p.187)

☆なるほど、台与=神功皇后だったのか。



●この韓国岳から東南に数キロの位置に、天孫降臨神話で名高い標高1574メートルの高千穂峰がある。(p.205)

☆高千穂は2か所ある!
(九州南部の霧島連峰の一山である高千穂峰(宮崎県と鹿児島県の県境)と、宮崎県高千穂町。ちなみに高千穂町は高千穂峡で有名なところだ)



●意外にも鹿児島県には、新羅系の渡来人が大挙して移住していた歴史がある。奈良時代に隼人の反乱があって、その前後、新羅系の渡来人が。懐柔するため大量に入植させられていったのである。(p.206)

☆鹿児島県に新羅系の渡来人が大量に入植させられていたとは知らなかった。



●宇佐神宮の祭神は、誉田別尊(応神天皇)、比売大神、大帯姫命(神功皇后)とされている。(p.208)

☆たしかに、仲哀天皇が祀られていないのは不思議だ。



●宇佐神宮には、「辛国」について、二つの伝承が残されている。 (中略) ひとつの神社の伝承に二通りの答えがあるのは、宇佐神宮の祠官に二つの家があるからで、両家の熾烈な勢力争いの歴史が隠されているからだ。(p.211)

☆何があったんだろう?

ちなみに、二つの伝承とは、「辛国」は宇佐神宮の近くにあったという説と、「辛国」=鹿児島にある「韓国岳」とする説。
そしてもう一つ、「辛国」=「韓国」とする説もあり、合計3つの解釈があるようだ。



●幼い応神を守り南部九州に逃れたのは、武内宿禰であり、これが神話となって、サルタヒコが生まれた、ということにほかならないのである。
(中略)
サルタヒコは天日槍であり、男性の太陽神である。これに対し「トヨ」は、伊勢神宮の外宮に祀られる「豊受大神」そのものであろう。(p.226-237)

☆新羅王子・天日槍(=サルタヒコ=武内宿禰=蘇我氏の祖先)とトヨ(台与=神功皇后)との間に生まれたのが応神天皇。
応神天皇を祀るのが宇佐神宮で、トヨを祀るのが伊勢神宮。
トヨと応神天皇(=神武天皇)がサルタヒコの道案内で南九州へ逃避行。そして高千穂に現れて天孫降臨の伝説となった。



●出雲勢力が中心となってトヨを北部九州に遣わし、邪馬台国の女王を殺したのである。(p.243)

☆卑弥呼を殺して英雄となったトヨは、今度は逆にヤマトに裏切られ、南九州へ逃げることとなる。この逃避行こそが「出雲の国譲り」、そして「天孫降臨」だという。
となると、邪馬台国の卑弥呼を殺させて、さらにその後、邪馬台国の女王となったトヨまで追いやったヤマトの主は誰なのか?ということだ。
そのあたりについては、本書では触れられていない。ヤマトの意志、ヤマトの思惑ということで通している。



●蘇我氏が頭角を現したのは、六世紀初頭の継体天皇の出現ののちのことだ。継体天皇は越(北陸地方)からやってきた大王であり、その越と強くつながる阿倍氏が、やはり六世紀に忽然と中央政権に登場した事実を、軽視することはできない。継体天皇は、史上初めて「東」からやってきた大王であり、ほぼ同時に蘇我氏が頭角を現したのは、偶然ではあるまい。
(中略)
蘇我氏を打倒した八世紀の藤原政権は、なぜか「東」を極端に恐れた。都周辺で不穏な空気が流れると、必ず東国に通じる三つの関を固く閉じた(三関固守)。天皇家の故地・越に抜ける道も閉ざしてしまうほどの、異常な行動である。(p.275-276 文庫版あとがきより)

☆Wikipediaによると、三関(さんげん、さんかん)とは、古代の日本で畿内周辺に設けられた関所の内、特に重視された三つの関の総称。三国之関とも呼ばれた。当初は不破関(美濃国、現在の岐阜県不破郡関ケ原町)、鈴鹿関(伊勢国、現在の三重県亀山市か)、愛発関(越前国、現在の福井県敦賀市内か)の三つを指したが、9世紀初頭に逢坂関(相坂関。近江国、現在の滋賀県大津市付近か)が愛発関に代わった。また、三関のある律令国は三関国と呼ばれた、とある。

ちなみに天皇家の故地・越としているが、越前(福井)なので、東というにはちょっとイメージが違う気がする。



●「ヒスイ」は、日本海側の越の国(新潟県糸魚川市周辺)で取れるものだが、出雲と越は弥生時代後期、四隅突出型墳丘墓という共通の文化で結ばれていた。(p.162)

☆「ヒスイ」の越は越後のようだ。ちなみに蘇我氏は「ヒスイ」にこだわった氏族として知られているようだ。





【アクションプラン】
・続いて 『物部氏の正体』 も読みたい。




【Amazonレビューより】





【この本が愛読書の有名人】





【評価】
評価:★★★★☆
こんな人に、こんな時におすすめ:
古代史に興味がある人に。

posted by macky at 23:14 | Comment(0) | 歴史 | edit | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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